04. 脱洗脳装置としての数学

03. *1では、人間個人単位では何かしらの信仰に依らずして、区分的に連続的な思考活動ができないことに触れ、その個人的信仰の拠りどころとなる宗教の候補に「(狭義の)科学」を挙げました。その実践方法について今回は述べていきたいと思います。
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20170106追記:あみだくじの行き先、論理記号の直訳や全射単射辺り等を加筆修正しました。
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04. 脱洗脳装置としての数学

03. で述べた「考え方を乗り換えるということ」を実践するためには、ある程度方法論を確立することが必要です。(20170106追記:)何故ならば、好き勝手に考え方を乗り換えてもそれは優柔不断なだけであって、かえって混乱をきたすだけだからです。(追記ここまで)そのために、私は個人の信仰という意味で拠りどころとなる宗教としての【数学】を採用する立場にいます。勿論、

【思考の自律性】

という意味では、哲学でも良いのですが、義務教育課程では必ずしも万人がある程度の素養を持ち合わせている保証がありません。それに対して、数学は国定のカリキュラムによって少なくとも中学数学まではその素養が保証されているため、0からのスタートという訳ではないのです。

ただし、これには反論もあることでしょう。すべての人間が無事に中学校を卒業したり、卒業したとしても数学を身につけていったかというと確かにそれは絶対ではありません。しかし、自然数概念をはじめとして、人間にある程度備わっている感覚は疑いようのないものであり、ここで健常な人間であれば、少なくとも対象内に入ることができます。ここまで来ると、あとは学習にハンディキャップがある人を押さえれば万人の数学ということになるわけで、そこでは数学の本質が「論理学」にあるということで解決されます。つまり、この考察からも分かるように、私たちが数学をやるというとき、それは暗に

「論理学を学ぶ」

ということを意味しています。

さて、先程述べた【思考の自律性】が数学に求められることをみていきましょう。まず、01. ではかけ算の順序について考えました。これに対しては02. でいうところの、

【授業は教師が教科を教える場ではない】

を適用し、

「教師は『かけ算』のきっかけを与え、児童・生徒こそが主体的にそれの理解に努める」

という構図を生み出せばよいのです。通常は

「教師が主体的に『かけ算』を解説し、児童・生徒は理解させられる」

という構図なのですから、03. で述べた「考え方を乗り換えるということ」に該当します。お気づきでしょうか、バラバラに述べていた01. ~03. がすべて「数学を学ぶこと」から演繹されます。タイトルにある「脱洗脳」とは古い信仰から新しい信仰へと乗り換えることを意味します。これが数学の脱洗脳装置としての役割です。

具体的に数学の例を挙げてみます。「関数」という概念は中学校で

「ともなって変わる2つの量の関係」

として了解されていたものが、高校では

「集合Xの1つの元xが決まると集合Yの元yがただ1つ決まる関係のうち、集合Yが数の集合であるもの」

と乗り換えられます。(20170106追記:)文字(変数)を使わないで表現したい場合もあるので、ここでは集合Xを『始まり*2』、集合Yを『行き先*3』と呼ぶことにします。すると、『始まり』の元から『行き先』の元(数)がただ1つ決まるという構図であるとも言い換えられます。論理記号で書けば、

∀x∈X, ∃!y∈Y s.t. f(x) = y

です。(追記ここまで)これにより、関数の連続性や微分可能性という性質について、緻密に議論することが可能になります。例えば、

f(x) = -x^2 (xが0未満のとき), x^2 (xが0以上のとき)

という関数を考えてみましょう。fは実数全体の集合から実数全体の集合への関数です。行き先が数の集合になっていますね。f(0)=0であり、xの値が0より小さいときと0以上のときとで場合分けされているものの、右極限も左極限も0ですから、連続性を持っています。そして、この(一階の)導関数

f'(x) = -2x (xが0未満のとき), 2x (xが0以上のとき)

であり、f(0)=0であり、x=0においては左極限も右極限も0ですから、やはり連続性を持っています。また、このことはもとの関数fが微分可能であることを意味しますが、二階の導関数

f''(x) = -2 (xが0未満のとき), 2 (xが0以上のとき)

ですから、x=0における連続性がなく、従ってf'はx=0で微分可能でないことを意味します。このように、「関数全体の集合」の中に「連続性を持っている関数の集合(連続関数全体の集合)」が包含され、さらにその中に「微分可能性を持っている関数の集合(可微分関数全体の集合)」が包含されます。y=x^2 と y=-x^2 といえば、中学校で習う範囲ですが、ちょっと切り貼り(して微分)するだけで、1点で微分可能でない関数 g=f' を構成することができるのです*4。また、その関数を微分することで、1点で不連続な関数 h = f'' も構成できましたね。このような緻密な議論に耐えるような「関数の定義」はとても優れていると思います。

勿論、ここで挙げた例はいわば、反論のための例であって自然に思えないかもしれません。しかし、

【関数とは何か】

という本質に迫る問いに対しては十分です。通常、学校数学ではこのような本質に迫る問いは扱いません。ただ、計算問題として解け、採点が容易な問題しか問われないのです。そのような教育を受けた児童・生徒からしたら、

「何のために数学を学ばされたのか」

という疑問は自然にに出てくることでしょう。関数の例についてまとめると、微分可能性は(未習であり考慮しなかったとしても)「連続性」をもたない「2つの対応」を「関数」にカテゴライズして構わないかという疑問を扱ったものといえるでしょう。そして、「連続性」を捨てて、プレーンな「関数」を再定義することで、思考枠組みを広げることができました。その結果、今までよりも広い視野で数学を捉えられるようになるという恩恵があります。

実際、「関数の定義」で既に述べた「集合Yが数の集合であるもの」に違和感を覚えた読者は洞察力に長けています。この部分をさらに捨てることによって

写像

という概念を獲得することができるのです。例えば、次のアミダくじをする状況を考えましょう。

あい う え
┣━┫ ┃ ┃
┃...┣-━┫ ┃
┣━┫ ┃ ┃
優準 3 4
勝優 位 位
 勝

あ→3位、
い→準優勝、
う→優勝、
え→4位

という対応があるため、この関係は

集合X = {あ, い, う, え}から集合Y = {優勝, 準優勝, 3位, 4位}への写像f

として捉えられます。行き先{優勝, 準優勝, 3位, 4位}も始まり{あ, い, う, え}も数の集合ではありません。しかし、実はこの写像は特別な性質を持つ写像です。具体的に言えば、行き先のすべての元に対して、

優勝→う,
準優勝→い,
3位→あ,
4位→え

というように始まりの元へと逆にたどることができるのです。この状況を

【逆写像】を持つ

と定義します。(20170106追記:)論理記号で書けば、

∀y∈Y, ∃!x∈X s.t. f(x)=y

であり、これを直訳すれば、

「(Yに属する)すべての y に対し、(Xに属する)ただ1つの x が存在して、f(x) = y である」

となります。(追記ここまで)アミダくじに限らず、一般的な写像が逆写像を持つための必要十分条件を探りましょう。

まず、行き先から1つの元を指定するためには、元の写像が行き先すべてにわたって写されることが必要です。論理記号で書けば、

∀y∈Y, ∃x∈X s.t. f(x) = y

であり、これを直訳すれば、

「(Yに属する)すべてのyに対し、(Xに属する)あるxが存在して、f(x)=yである」

となります。逆写像の定義と見比べてみてもただ1つの以外は同じであり、肉薄していますね。この性質も持つ写像を【全射】といいます。性質そのものは「全射性」と呼ぶことにしましょう。しかし、全射が必ずしも逆写像をもつとは限りません。行き先の元から逆にたどるときに、始まりの元が2つ以上存在すると、それは写像の定義の「『行き先』の元がただ1つ決まる」という部分に抵触するからです*5。そのために、次は

「最初の写像が『違う元を違う元に写す』」

という条件を考えましょう。一般に写像が逆写像を持つためには、全射性とともに上の性質も満たす必要があります。論理記号で書けば、

∀x_1,x_2∈X, (¬(x_1 = x_2) →¬(f(x_1) = f(x_2)))

であり、これも直訳すれば、

「(Xに属する)すべてのx_1, x_2に対し、『x_1とx_2が等しくないならば、f(x_1)とf(x_2)も等しくない』」

となります。このような写像を【単射】といいます。性質そのものは、前の性質と同様に単射性と呼ぶことにしましょう。単射性は逆向きに定義することもできます。その場合は命題の対偶をとって

∀x_1, x_2∈X, (f(x_1) ≠ f(x_2)→x_1≠x_2)

とするのです。直訳は

「(Xに属する)すべてのx_1, x_2に対し、『f(x_1) = f(x_2)ならば、x_1 = x_2』である」

となります。どちらを用いるかは好みの問題です。

一般の写像がこれまでに述べた【全射】かつ【単射】であるとき、【全単射】と定義しましょう。実は全単射は必ず逆写像を持つことが示せるのです。この証明は読者の宿題とします。逆写像を持てば全単射であることは確認済みなのでよいでしょう。(170106追記:)このようにして得られた写像fの逆写像

f^{-1}

とかき、

エフ・インバース

と呼びます。今後述べる予定ですが、写像に演算を定義したとき、このように逆写像をもつ写像全体を考えることが重要です。ここでも、【絶対的な真理はないが、ある仮定の下では真理とみなせる】という論理学のよさが出るのです。(追記ここまで)

そして、何故ここまで「写像」にこだわるのかというと、大学の学部レベル以降の数学では本質的に「写像」という言葉なしには語れない(あるいは、語れても回りくどくなる)ことを知っておけば、高校数学レベルの数学理解でも市販されている大学レベルの数学書を読み始めることができるかもしれないからです。

数学を通して、論理学を学ばせ、【思考の自律性】を強く意識させること。これが脱洗脳装置としての数学の役割・効用です。経験したことのみを語り得るという立場を捨てて、再現性・普遍性を持つ形式科学としての論理学を学ぶということが如何に重要なことであるか、再確認できたことでしょう。

04. 脱洗脳装置としての数学、は以上です。

*1:03. 考え方を乗り換えるということ http://bb69qq.hatenablog.com/entry/2017/01/05/061551

*2:『始まり』のことを数学では『定義域』と呼びます。

*3:『行き先』のことを数学では『値域(終域)』と呼びます。

*4:20170106追記:この場合は、絶対値記号|・|を用いて、 g(x) = 2|x| と書くこともできます。また、「すべての点で微分可能である」を否定するというときには、「1点でも微分可能でない点が存在する」ことを示せばよいです。これは論理学のルールであり、勿論、「連続性」についても同じ議論がなされます。

*5:20170106追記:例えば「あ」さん、「い」さん、「う」さん、「え」さん各々にアミダくじの行き先予想をしてもらい、集計結果が「あ→優勝、い→優勝、う→3位、え→4位」となった状況を想定してみましょう。このとき、優勝→「あ」「い」とたどることになり、写像の定義を満たしません。なお、逆写像の始まりは最初の写像の行き先であり、かつ、逆写像の行き先は最初の写像の始まりとなっていることにも注意しましょう。

03. 考え方を乗り換えるということ

02. *1の続きです。02. では教育全般が広範な洗脳であることを示し、その上でよい洗脳とは何かということを考えました。具体的に私が考えるよい洗脳を述べたいと思います。
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20170106追記:一部誤字脱字等を修正し、追記しました。
20170106追記:カテゴリー「思考停止人間について」を新設し、振り分けました。それに伴い、記事タイトルを変更しています。
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03. 考え方を乗り換えるということ

洗脳といえば宗教、宗教といえば洗脳、と言った具合に、洗脳について考えるときに宗教という具体例はなくてはならないものです。というのも、通常、学校・家庭での教育はあくまでも教育とみなされ、洗脳であると指摘されることは稀だからです。つまり、具体的にイメージしにくいのであって、むしろ宗教の洗脳をイメージすることが、教育における洗脳を副二次的に表してくれることでしょう。

私は宗教は肉体的・精神的・経済的に劣っていたり、貧しい場合に求める欲求(の具現)だと考えます。分かりやすい例が生まれつき体が弱かったり、劣等コンプレックスを持っている場合です。

強盗や傷害の被害者であれば、加害者を訴えたり、そうでなくとも恨むこと自体は可能です。しかし、やり場のない恨みはその人を執拗に追い詰めます。体が弱いことを母親に訴えたとしても、取り返しがつきません。「生まれ変わり」という概念*2が実在しない以上、仮にその場で絶命しても生まれつきのからだの強さが健常な人のそれに追い付くことはありません。(20170106追記:)その時点で人生は終了であり、それを超えるものでも下回るものでもありません。哲学ではよく言及されますが、「死」は人生の外にあるため、存命中に経験することではないのです。(追記ここまで)

そのため、誰も恨む対象になりえないどころか、下手したら悩んでいるその人自身が悪いという段階にまで進んでしまうと、悪い自己洗脳(自己催眠)として立ち直りにくくなってしまうことでしょう。

そこで、助けを求めるのが宗教です。例えば、前世*3で悪いことをしたからその贖罪なのだ、と説明されたら少なくとも自分が悪いという考え方からは脱することができます。ここまではまだましです。単なるレトリックであって、何ら論理性はないと判定できるからです。しかし、その苦しい状況から脱するために宗教活動をみんなでしていこうというのは、どうなのでしょう。また、批判をしてくる団体は敵とみなし、徹底的に抗戦するという団体もいることでしょう。

このように、人間の心というものは、個人的信仰と集団的信仰が入り交じっており、後者に偏るほど思考停止人間に陥りやすくなります。

私は個人的信仰などしていないぞ!という方もおられることでしょうが、食前の「いただきます」や食後の「ごちそうさま」は元々は調理した人間にかける言葉だったものが、食材となった生命の命にかける言葉でもあるとして拡大解釈されています。また、そもそも白米をおかずと一緒に口の中に運び、食すという行為も慣れてしまっているから違和感がないですが、国際的には珍しい部類です。このような背景には、民間伝承をはじめとする

「集団的無意識による自己洗脳」

があることが大きいと思っています。1. で取り上げた「かけ算の順序」などもそれにあたります。元を辿っていけば、「そのような気がする」程度だったもののはずです。みんながそれを信仰するようになってからは、そこまで、熱心に布教しなくても「これは正しい知識だ」として集団的無意識的に各自が自己洗脳していくために、

「誰もが信じて疑わない定説」

と化していくのです。この仮説に従えば「かけ算の順序が存在する」という「常識」がウソであることを示すのはこんなんであることはすでに01. で示した通りです。

さて、 前置きが長くなりましたが本題に入りましょう。個人単位での信仰が文化的に根付いている以上、これを排すことはできないと考えた方が無難です。人類単位でいえば、人前に出るときは服を着ないと恥ずかしい、という信仰もあります。これらすべての個人的信仰を無視するということは、山奥で仙人のような暮らしをしない限りは事実上不可能でしょう。

そこで、集団的信仰が「信仰の自由」を脅かす可能性について考えてみたいと思います。例えば、Aといつ宗教があったとして、aさんがAの熱烈な信者だとします。同様にBという宗教があって、bさんがBの熱烈な信者だとします。aさんは「Aこそ真の宗教であって、Bは邪教である」と考えるとともに、「bさんは道を誤っているから、正しい道に進めてあげるべき」という過激な思想の持ち主です(aさん自身からしたら、善行をしているのでむしろ推奨されるべきだと自負があるのですが、客観的にみた場合の状態としては過激というほかありません)。

そこで、aさんとbさんは互いの信じるA, Bの教義に基づき、論争を繰り広げるのですが埒があきません。次第に、それぞれの仲間も論争に加わり、次第に人格攻撃をはじめとしたトラブルが引き起こされるという思考実験です。(20170106追記:)ここには「お互いが善行のつもりで始めたことが『信仰の自由』を侵害する」という問題が発生しているといこうです。(追記ここまで)

ここでよく問題視されるのが、

「果たして絶対的に正しい宗教など存在するのか」

ということです。私自身はこの問いに否を差し出します。しかし、相対的に見て、合理性や再現性がある宗教があります。それは

「科学」または「狭義の科学」

です。万能な宗教の追求を断念する代わりに、部分的にではあるが利用価値の高い宗教を求めるということが、

「考え方を乗り換えるということ」

です。ヘーゲルの「弁証法」やパースの「abduction」然り、その技術論には枚挙に暇がありませんが、思考を硬直化させずに、いつでも乗り換えていいんだという心構えで臨むことが重要であると同時に、実用性を優先すると大抵は思考の対象外になってしまうことが現実です。所謂、「大人は頭が硬い」というのも、根本的に

【生きる上では困らない程度の理解】

を求めているからです。これは、子どもが実用性を無視して「⚫⚫って何?どうして?どういうこと?」と大人に訊ねるのとは対称的です。

03. 考え方を乗り換えるということ、は以上です。

*1:02. よい洗脳について考えること http://bb69qq.hatenablog.com/entry/2017/01/02/012650

*2:実はこれも洗脳による認識であって、経験しないし存在を証明できない概念。

*3:これも「生まれ変わり」の話と同様に経験もしないし存在を証明できない概念。

02. よい洗脳について考えるということ

01. *1の続きです。
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20170106追記:カテゴリー「思考停止人間について」を新設し、振り分けました。それに伴い、記事タイトルを変更しています。
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02. よい洗脳について考えるということ

さて、思考停止人間なるものを前回定義した訳ですが、その問題点は

思考停止人間が思考停止人間を再生産してしまうということ

に尽きます。コミュニーケーション全般に言えることですが、誤りを完全になくしたコミュニーケーションはあり得ません。その意味では、教師は新米ならば特に児童・生徒に時として嘘を教えてしまいます。教員養成大学に入学してから、技術的なノウハウをベテランの域に達するまで習得することは事実上不可能です。何とか実践経験を積んでみたとしても、過去の有力な学説が最近の研究の結果により覆されることもあるからです。その意味では過去まで遡及して、逐一訂正することはできないでしょう。私が学部生として講義を受けていたときに分かった(というか教わった)ことは、

講義(授業)は教授(教師)が教科を教える場ではないということ

です。正直なところ、この話をされたときに困惑しました。何のために授業料ないし学費を払っているのか、先生は私たちに分かるまで教えてくれるわけではないのかと。しかし、学部レベル以上の数学は、予想以上に理解に時間をようし、とてもではないが、講義のみでは内容についていける保証はありませんでした。ここで、改めて高校生の数学の学び方に大きく分けて2タイプがいることが分かったのです。

A. 予習メインで授業は確認程度
B. 予習なし、授業ですべて理解を完結させる

今となっては恥ずかしい事ですが、学部入学直後の私はB. でした。高校教師は高校授業で自身の授業への対策としてA. を推奨していました。しかし、前記事の「オレ流君」タイプだったら私としては、B. を実施していました。しかし、教科書の内容をなぞるだけの授業だったので、極端な話、教師の説明を聞いて理解するよりも、自分で授業中に教科書を読んで理解した方が効率的だったのです(問題集を解く時間に充てていました)。

しかし、そのやり方は大学で通用しなくなりました。それ故に、私の場合は必要に駆られて【学習に対するあり方】を再検討せざるを得なかったのです。なお、数学の予習について予期せぬことが起きたのでした。その件につきましては、時間に余裕があるときに記事にしたいと思います。

また、この再検討はたまたまうまくいくだけであることかと聞かれるよ、そうではないと答えることになります。そもそも、数学の学習が既存の知識の組み直しであることを考慮すると、自分以外の人間が自分に新しい知識を植え付けることができないとわかりますよね。そのように見えたとしても、それは洗脳の1種であるからです。洗脳されて、それに馴染むように動かされて、今までになかったことを身に付けていく。

言ってみれば、教育は洗脳です。ここでいう洗脳とは事実を指すだけで、善悪に関しては触れていないことに注意しましょう。そう、ここで問題にしているのは、個々の人間にとって

「よい洗脳とはどんなものか」

を考えることが重要です。そのために、ここでは教育を3つに大別します。

A. 親や保護者による家庭教育
B. 教師による学校教育
C. 各種メディアによる洗脳教育

順番に見ていきましょう。

A. 家庭教育では親や保護者が審美眼を持ち合わせていることが求められます。例えば、体罰。ちょっと道をはずした子供に懲罰の意味でほほをはたいたり殴ったり、蹴ったりすることが続いたとき、体罰を受けることが嫌いな子供はそれを拒否すべく従順になります。おや、かけ算の順序問題のときとそっくりの問題がありました。納得のいく説明ができないから、それをごまかすために体罰により、言うことを聞かせる訳です。すると、次からは楽です。親や保護者のいる前では決して、過ちを犯さないようになります。残念ながら、少し昔は当然のように行われてきたしつけ方法です。これでしつけられたから、自分の子供も!という再生産が起きることになります。叱られた理由がわかれば、何で悪いのかがわかり、他のことにも転用できるんですけどね。その意味では二重に損をしています(再生産による損失と機会の損失)。

続いてB. 学校教育に入ります。基本的な構図はA. 家庭教育と同じです。異なるのは、家庭では多くても5~10人ほどの家族親族しか関係し合いませんが、学校では時に30~40人の同学年の人達と関係し合うことがあります。そのなかで、家庭のことを話すこともあるでしょう。そして、「うちの家庭のルールはおかしい」と感じることも。その是非はケースバイケースではありますが、ファクターが多すぎてそもそも制御できる保証などないのです。しかし、現実には教師が学級を統率しないとならない。学級崩壊してはならないと無欲求められます。学級崩壊しないための簡単な方法は洗脳です。私からしたら、学級崩壊こそむしろ、児童や生徒の本音が現れることもあって、自然な環境なのではないかと思います。みんなやりたくもない勉強を無理矢理やらされているのです。ここでの教訓は

「命令されてやっていることは好きにはなれない」

ということ。勿論、お互いの「教えたい-教わりたい関係」が、構築できたら話は別です。「そんな理想論なんて(笑)」なんて思う人もいると思います。しかし、部活動を監督したことがあるなら知っているように、本当に技術の上達を希望するから、多少厳しい練習でも頑張れるという生徒もいます。理不尽なことでなく、スポーツ科学に則った練習であれば、めきめき実力は上がります。それは「教えたい-教わりたい関係」において、お互いの達成感が得られる瞬間でもあります。

最後にC. メディアの洗脳教育です。これは前者二つとは大きく子となります。洗脳というとネガティブなイメージばかりが先行しますが、いわゆるコマーシャル(CM)などはまさに、これに該当します。よくよく考えてみると、私たちは欲しくもないものを無理矢理買わされています。特に依存症になってしまうものは、それだけリピートしてくれるわけですから、資本主義において最も効率のよい消費スタイルでしょう(企業側にとっての都合ですが……)。

このようにマスメディアはマスメディアやスポンサーに都合のよいような情報を垂れ流します。これで、世論を動かす装置が完成したかのように思われました。しかし、そこにSNSサービスが食って掛かったのです。

SNSサービスの特徴は、それ自体の発信能力というよりかは、既存のユーザーの発信能力の増強に他なりません(勿論、SNSサービス自体がニュースサイトと連携してニュースを拡散しているようなケースもありますが、あくまでも主体はユーザーです)。

つまり、このSNSサービスの特徴はこれまで埋もれていたような少数派の声を拾える・探せるという可能性です。一昔前ならば、どこか一ヶ所にあつまったり、ひとつのサイトに繋がれるようにしなければ鳴らなかったのですが、今や自力でそのようなコミュニティを検索エンジンによって探し出せます。

この検索という行為こそ、これまでになかった革新です。体型立てた構造はその重複構造から、配置を困難にしました。そこに、ラベリングすることで複数のカテゴリーに分類でき、そのカテゴリーを可能な限り増やしたのが検索結果と言ってよいでしょう。実際、都市伝説や民間伝承の類いもその真相を調査したユーザーの結果を後追いできたりします。

さて、ここでの問題はそれまで暴くことが出来なかった民間伝承の真相を複数のユーザー間でやり取りをすることで協同して探り当てることができることに起因する、常識の破壊です。

前の記事でも述べましたが私のスタイルは建設的な懐疑論者なので、そのデメリットである、どの常識が怪しいのかを判定する基準がもてないことをカバーします(厳密な懐疑論者はそもそもものが存在するか否かまで考慮しないと、その先へ進めないので、かなり足踏みすることになります)。

結果的に言えばこの、メディアによる洗脳教育の中には既存の悪しき常識を打ち破るまた、別の洗脳が用意されていたのです。洗脳には洗脳を。これは脱洗脳が事実上の洗脳の上書きによることに起因します。それゆえに、対案が必要なのです。前記事のかけ算順序について言えば、現存の常識への論駁を行っても効果は薄く、むしろ、対案を示すことが議論を建設的に進めます。

し・か・し……このかけ算順序については、前記事でも述べたように原理的に≪1つ分の数≫と≪いくつ分≫ を区別することができないのですから、対案自体を作ることができません。それゆえに、(言わば設問の落ち度として)、

「対案が作れないこと」

を示さなければなりません*2。しかし、これでよいのです。かけ算順序はこのみの問題ですから、教師の好みと児童の好みが一致しなかったとしてと、無条件で正答にするのがよいでしょう。つまり、

「かけ算の順序が存在する」

という立場を捨てるのです。そして、この能力が数学を学ぶことで養われることが重要です。

02. よい洗脳について考えるということ、は以上です。

*1:01.かけ算の順序について考えるということ http://bb69qq.hatenablog.com/entry/2017/01/01/180202

*2:20170104追記: 適当に数値を配置して立式しようとする行為への対案として、よく挙げられるものに「たし算やひき算などを混ぜる」「日付や組名などの計算とは関係のない数値を混在させる」等がありますが、これはノイズ除去の観点からして推奨されません。より詳しく言えば、ノイズ除去を予め済ませている「スモールステップ方式」を予め否定しておかないといけません。そうした場合、児童自身で「これはノイズだから除去しないといけない」という判断能力がかけ算とは別に必要となるため、教師側の落ちこぼれ回避傾向からすると、認め難い選択肢なのです

01. かけ算の順序について考えるということ

私は現在、自身にふりかかっていることで困っています。

それもそのはず。実家で同居している父母が「思考停止人間」なのですから……。本稿では「思考停止人間」について定義をし、その危険性について言及することにより、同様の境遇にいる人からご意見賜ることを目指します。以下、内容は未構成ですが、それとなく繋がっている体でお読みくだされば幸いです。

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20170106追記:カテゴリー「思考停止人間について」を新設し、振り分けました。それに伴い、記事タイトルを変更しています。

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01. かけ算の順序について考えるということ

 

ことの発端はTwitterで情報収集していた時に感じたことです。小学校2年生で習うかけ算について、

 

「単価200円のりんごを3個買うとき、代金はいくらか。」

 

という問いに対して、

 

立式 :200 × 3 = 600

答え:600円

 

という答案を書いたとしましょう。これに関しては、異論なく正答という立場が通常です。問題はこの立式におけるかけ算が逆順だったときにどのように採点するべきかについて、「正答○ v.s. 誤答× v.s. 減点△」という大別して3通りの立場があることです。つまり、

 

立式 :3×200 =600

答え:600円

 

という答案の是非が問われているのです。ただし、分かりやすくするために、問題文は少し大人向けに改変しました。小学校では習っていない漢字を設問中に記載するのを避けたり、分かりやすい表現に直すからです。これについても、議論の的になることもありますが、本題からそれるのでここでは扱わないことにします。

 

むしろ、ここで重要なことは、【あなたは世間の常識を疑えるか?】という点にあると思います。「世間の常識」とは外部から注入された知識のことであって、自分自身の経験則から得られていないことを意図します。このようにお膳立てした上で持論というか、立場を述べると

 

「元々は逆順だと誤答扱いだったが、今では逆順でも正答」派

 

です。哲学者の言質さえもが、その研究時期によって変わりうるのに、況してや私たちの主張が変わらないはずなどありません。つまり、人生の中で「これが私の永久不変の持論である」というのはとてもではないですが、言えないということです。一種の可謬主義だと考えて頂ければよいでしょう。

 

何故このような説明の面倒な立場を提示するかというと、プライドの高い人ほど俗世間の根拠のない常識に染まっている自分を認めらません。言わば、これは個人の自己欺瞞です。

 

プライドのない私としては、泥の舟に乗ったまま沼底に沈むのが怖いので、別の舟に乗り換えます。何も恥じることはないのです。人間は往々にして失敗するので、歳が上であるとか、権威があるからという理由で失敗しないとは言い切れないのですから。その意味での私の立場は建設的な懐疑主義者です。何から何まで懐疑的になってしまうと、懐疑することが目的になってしまうので、そうはしませんが、ふと疑問に思うことやモヤモヤしていることを解消するのは、他の知識や理解に関する援用可能性が増えるという意味で有用です。私は「思考停止人間」にならないために、そのような「疑問発生-解消サイクル」を大事にしています。おっと、「思考停止人間」の定義を述べていませんでした。「思考停止人間」とは

 

「客観的主張を持たず、直感的に事を遂行していく人間のこと」

 

です。このての人間を見分けるのは意外と難しいです。というのも、一見して「思考停止人間」の対極にいる「思考人間」のように見えて、実はでっち上げだったということがあります。今回のかけ算の順序問題で言うならば

 

主張A「算数を苦手とする児童のために、逆順を誤答にしている」

 

と言った具合です。実のところ私も最初はそのように思っていた節があります。数学的には正しい「有理整数環の乗法に関する交換法則」を否定しているのではなく、教育効果を狙ったものだと考えるのは自然でしょう。そこで、問題の置き換えを行ってみましょう。もし、上に挙げた主張Aが正しいとした場合に、算数を苦手とする児童が立式の段階でかけ順を「間違えてしまった(本当は間違えではないが)」場合に、それが何を意味するのでしょうか。それは次の主張です。

 

主張B「かけ算の意味、つまり、≪1つ分の数≫と≪いくつ分≫の意味の把握を苦手とする児童のために、逆順を誤答にしている」

 

これで主張Aよりもより緻密に議論できるようになりました。算数教育において、漫然と設問中の数値を×記号の前後に配置して、九九の結果とを=記号で結べばいいと思っている児童をあぶり出したいという意図が背後にあります。なるほど、意味など考えなくても、立式と答えは模範とされる解答と合致してしまいます。これでは、かけ算の考え方を他の知識や理解に関して援用可能になる形に持っていけないことになり、その場かぎりの、テクニックですらない練習になります。それを防ぎたいと……。そこで、「かけ算の意味を見える形にするためには、≪1つ分の数≫ × ≪いくつ分≫ = ≪結果≫という順序を固定してしまえ!」というルールが生じます。これを

 

(かけ算の)順序固定ルール

 

と呼ぶことにします。順序固定ルールの凄いところはチェックが容易なことです。授業をきちんと聞いていれば、逆順にしているだけで、誤答扱いにでき、教師の負担は最小限で済みます。このルールの是非は後程議論しますが、メタな視点からして、何故にこのようなルールがまかり通ってしまうかについては、一度考えておくべきでしょう。順序固定ルールを擁護する立場の人は、何かしら恩恵があるからそうしていると考えるのが妥当です。その心構えがなければ、批判された側からしてみれば「俺達だってちゃんと考えた上でやっているんだから、素人は口を出すな!」で議論さえできないこともあるからです。ある意味での譲歩です。

 

さて、かけ算の順序固定ルールの弊害について議論します。ここでも、主張の置き換えを行うと、

 

主張C「授業をきちんと聞いている児童の回答は常に正答に最も近い」

 

となります。最も近いと言ったのは、時間制限のある筆記テストではケアレスミスなどで誤答することもあるという意味です。原理的には、ケアレスミスがなければ満点を取れます。実はこの主張Cがいかにも、真実であるかのように思えることに罠が潜んでいます。教師側のケアレスミス(計算ミスや板書ミス等)も児童のケアレスミスと同様に話の本筋ではないのでここでは除くこととしましょう。この教師が先程の「思考停止人間」であった場合に不幸が起きます。いわば、「思考停止教師」です。

 

まず、「思考停止教師」はかけ算の順序があることを疑いません。その結果、児童に対して「かけ算には正しい順序があるよ」と教えます。そして、その順序固定ルールを児童に教え込むことで、また、逆順を誤答にすることで、「思考停止児童」を再生産します。このように、二重の意味で危ういのです。そして、自分と同じ「思考停止人間」が生まれたことに歓びます。「ルールに従うことは正義であり、そのルールの正しさは教え子が担保してくれる」と。

 

ところで、ここに授業をあまりきかないわりに、オレ流で理解していく児童「オレ流君」がいたと想定してみましょう。この「オレ流君」は神童ではありません。ただ単に、授業を聞くよりも、自分自身で編み出した方式で理解していくというスタイルです。勿論、≪1つ分の数≫も≪いくつ分≫も教師の説明の中から受け入れません。それらと等価な(同値な)理解でかけ算を捉えていきます。その考え方とは、「1個だけでなく、複数がそれぞれ同じように増えていく操作」というインフォーマルなイメージだと仮定しましょう。

 

「1円玉1枚が1個だけでなく、200個でそれぞれ3倍に増えていく」と考えて、

 

式 :200 × 3 = 600

答え:600円

 

となりますし、「1円玉1枚が1個だけでなく、3個それぞれで200倍に増えていく」と考えれば、

 

式 :3 × 200 = 600

答え:600円

 

となります(立式は事実上、かけ算の順序固定ルール込みでの式なので、ここでは単に式と書きました)。繰り返しになりますが、「オレ流君」は決して神童ではありません。上の2つが同じ結果になることも分からず、無意識に混在してしまうといった状況です。

 

当然、この考え方は「1の⚫倍」や「■ × ≪1より小さい数≫」の場合には通用しなくなります。しかし、通用しなくなったときに乗り換えればよいのです。私の立場としては、「例外なく、常に誤りが起きなければ、それは誤りだとはいえない」ということです。その立場が土台にあります。

 

さて、この「オレ流君」は確認テストでどうなるのでしょうか。

 

教師「「オレ流君」は授業をきちんと聞いていないから、≪1つ分の数≫と≪いくつ分≫がわかってないんだよ。この答えは×。解き直しておいで。」

オレ流君「はい……。」

(オレ流心の声→なんで×にされたんだろう?≪いくつ分の数≫とか≪いくつ分≫って何のこと?オレは自分で考えちゃダメで先生のいうこときけってこと?)

 

(教師心の声→何故に私はかけ算の順序が逆であるときに誤答にしたのだろうか。でも、そう指導書には書いてあるし、適当に数値をあてはめて答えられたら判断できないから、かけ算の順序固定ルールは必要。たし算やひき算を混ぜたら、かけ算の習得にはノイズになるかもしれないし、それ以外に問題を作りようがないものな。もしかしたら、かけ算の順序と理解は別かもしれないけど、適当に数値をあてはめて答えられたのか、分かってやっていたのかを個人的に判断してたら、公平性が失われるし……このままでいくしかないな。)

 

ここで述べたのはあくまでも思考実験であって、現実に即していないと批判されるかもしれません。しかし、1つ言えるのは

 

主張D「授業とは別に算数・数学は存在していて、≪1つの式(表現)の解釈が1つしかないこと≫は疑いの余地がある」

 

ということです。≪≫内は教師の持つ「そうだったらいいのにな」という妄想であって、反例はいくらでもあります。あえていえば、入試問題にも別解が見受けられますよね。どの方法で考えたかによって、論理的にそれらの優劣が定まらないことと同じです。実際には、算数は教師の定めたルールこそ真理であり、解釈の余地はないとされることもあるようです。これは、まさしく「思考停止人間」の仕業だと私は考えます。

 

01. かけ算の順序について考えるということ、は以上です。

簡単に自己紹介というか自分語り

bb69qqと書いて「ブロック」と読みます。

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20170106追記:カテゴリー「挨拶・その他」を新設し、振り分けました。

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日常疑問に思うことを匿名で語ります。扱いたい内容は多岐にわたりますが、考えることを重要視したいので、時として狭義の科学では扱えないものも含みます。

 

つまり、エッセイというかポエムというかフィーリングを述べたものであって、学術的な価値を追求したものでないことは断っておきます。