01. かけ算の順序について考えるということ

私は現在、自身にふりかかっていることで困っています。

それもそのはず。実家で同居している父母が「思考停止人間」なのですから……。本稿では「思考停止人間」について定義をし、その危険性について言及することにより、同様の境遇にいる人からご意見賜ることを目指します。以下、内容は未構成ですが、それとなく繋がっている体でお読みくだされば幸いです。

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20170106追記:カテゴリー「思考停止人間について」を新設し、振り分けました。それに伴い、記事タイトルを変更しています。

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01. かけ算の順序について考えるということ

 

ことの発端はTwitterで情報収集していた時に感じたことです。小学校2年生で習うかけ算について、

 

「単価200円のりんごを3個買うとき、代金はいくらか。」

 

という問いに対して、

 

立式 :200 × 3 = 600

答え:600円

 

という答案を書いたとしましょう。これに関しては、異論なく正答という立場が通常です。問題はこの立式におけるかけ算が逆順だったときにどのように採点するべきかについて、「正答○ v.s. 誤答× v.s. 減点△」という大別して3通りの立場があることです。つまり、

 

立式 :3×200 =600

答え:600円

 

という答案の是非が問われているのです。ただし、分かりやすくするために、問題文は少し大人向けに改変しました。小学校では習っていない漢字を設問中に記載するのを避けたり、分かりやすい表現に直すからです。これについても、議論の的になることもありますが、本題からそれるのでここでは扱わないことにします。

 

むしろ、ここで重要なことは、【あなたは世間の常識を疑えるか?】という点にあると思います。「世間の常識」とは外部から注入された知識のことであって、自分自身の経験則から得られていないことを意図します。このようにお膳立てした上で持論というか、立場を述べると

 

「元々は逆順だと誤答扱いだったが、今では逆順でも正答」派

 

です。哲学者の言質さえもが、その研究時期によって変わりうるのに、況してや私たちの主張が変わらないはずなどありません。つまり、人生の中で「これが私の永久不変の持論である」というのはとてもではないですが、言えないということです。一種の可謬主義だと考えて頂ければよいでしょう。

 

何故このような説明の面倒な立場を提示するかというと、プライドの高い人ほど俗世間の根拠のない常識に染まっている自分を認めらません。言わば、これは個人の自己欺瞞です。

 

プライドのない私としては、泥の舟に乗ったまま沼底に沈むのが怖いので、別の舟に乗り換えます。何も恥じることはないのです。人間は往々にして失敗するので、歳が上であるとか、権威があるからという理由で失敗しないとは言い切れないのですから。その意味での私の立場は建設的な懐疑主義者です。何から何まで懐疑的になってしまうと、懐疑することが目的になってしまうので、そうはしませんが、ふと疑問に思うことやモヤモヤしていることを解消するのは、他の知識や理解に関する援用可能性が増えるという意味で有用です。私は「思考停止人間」にならないために、そのような「疑問発生-解消サイクル」を大事にしています。おっと、「思考停止人間」の定義を述べていませんでした。「思考停止人間」とは

 

「客観的主張を持たず、直感的に事を遂行していく人間のこと」

 

です。このての人間を見分けるのは意外と難しいです。というのも、一見して「思考停止人間」の対極にいる「思考人間」のように見えて、実はでっち上げだったということがあります。今回のかけ算の順序問題で言うならば

 

主張A「算数を苦手とする児童のために、逆順を誤答にしている」

 

と言った具合です。実のところ私も最初はそのように思っていた節があります。数学的には正しい「有理整数環の乗法に関する交換法則」を否定しているのではなく、教育効果を狙ったものだと考えるのは自然でしょう。そこで、問題の置き換えを行ってみましょう。もし、上に挙げた主張Aが正しいとした場合に、算数を苦手とする児童が立式の段階でかけ順を「間違えてしまった(本当は間違えではないが)」場合に、それが何を意味するのでしょうか。それは次の主張です。

 

主張B「かけ算の意味、つまり、≪1つ分の数≫と≪いくつ分≫の意味の把握を苦手とする児童のために、逆順を誤答にしている」

 

これで主張Aよりもより緻密に議論できるようになりました。算数教育において、漫然と設問中の数値を×記号の前後に配置して、九九の結果とを=記号で結べばいいと思っている児童をあぶり出したいという意図が背後にあります。なるほど、意味など考えなくても、立式と答えは模範とされる解答と合致してしまいます。これでは、かけ算の考え方を他の知識や理解に関して援用可能になる形に持っていけないことになり、その場かぎりの、テクニックですらない練習になります。それを防ぎたいと……。そこで、「かけ算の意味を見える形にするためには、≪1つ分の数≫ × ≪いくつ分≫ = ≪結果≫という順序を固定してしまえ!」というルールが生じます。これを

 

(かけ算の)順序固定ルール

 

と呼ぶことにします。順序固定ルールの凄いところはチェックが容易なことです。授業をきちんと聞いていれば、逆順にしているだけで、誤答扱いにでき、教師の負担は最小限で済みます。このルールの是非は後程議論しますが、メタな視点からして、何故にこのようなルールがまかり通ってしまうかについては、一度考えておくべきでしょう。順序固定ルールを擁護する立場の人は、何かしら恩恵があるからそうしていると考えるのが妥当です。その心構えがなければ、批判された側からしてみれば「俺達だってちゃんと考えた上でやっているんだから、素人は口を出すな!」で議論さえできないこともあるからです。ある意味での譲歩です。

 

さて、かけ算の順序固定ルールの弊害について議論します。ここでも、主張の置き換えを行うと、

 

主張C「授業をきちんと聞いている児童の回答は常に正答に最も近い」

 

となります。最も近いと言ったのは、時間制限のある筆記テストではケアレスミスなどで誤答することもあるという意味です。原理的には、ケアレスミスがなければ満点を取れます。実はこの主張Cがいかにも、真実であるかのように思えることに罠が潜んでいます。教師側のケアレスミス(計算ミスや板書ミス等)も児童のケアレスミスと同様に話の本筋ではないのでここでは除くこととしましょう。この教師が先程の「思考停止人間」であった場合に不幸が起きます。いわば、「思考停止教師」です。

 

まず、「思考停止教師」はかけ算の順序があることを疑いません。その結果、児童に対して「かけ算には正しい順序があるよ」と教えます。そして、その順序固定ルールを児童に教え込むことで、また、逆順を誤答にすることで、「思考停止児童」を再生産します。このように、二重の意味で危ういのです。そして、自分と同じ「思考停止人間」が生まれたことに歓びます。「ルールに従うことは正義であり、そのルールの正しさは教え子が担保してくれる」と。

 

ところで、ここに授業をあまりきかないわりに、オレ流で理解していく児童「オレ流君」がいたと想定してみましょう。この「オレ流君」は神童ではありません。ただ単に、授業を聞くよりも、自分自身で編み出した方式で理解していくというスタイルです。勿論、≪1つ分の数≫も≪いくつ分≫も教師の説明の中から受け入れません。それらと等価な(同値な)理解でかけ算を捉えていきます。その考え方とは、「1個だけでなく、複数がそれぞれ同じように増えていく操作」というインフォーマルなイメージだと仮定しましょう。

 

「1円玉1枚が1個だけでなく、200個でそれぞれ3倍に増えていく」と考えて、

 

式 :200 × 3 = 600

答え:600円

 

となりますし、「1円玉1枚が1個だけでなく、3個それぞれで200倍に増えていく」と考えれば、

 

式 :3 × 200 = 600

答え:600円

 

となります(立式は事実上、かけ算の順序固定ルール込みでの式なので、ここでは単に式と書きました)。繰り返しになりますが、「オレ流君」は決して神童ではありません。上の2つが同じ結果になることも分からず、無意識に混在してしまうといった状況です。

 

当然、この考え方は「1の⚫倍」や「■ × ≪1より小さい数≫」の場合には通用しなくなります。しかし、通用しなくなったときに乗り換えればよいのです。私の立場としては、「例外なく、常に誤りが起きなければ、それは誤りだとはいえない」ということです。その立場が土台にあります。

 

さて、この「オレ流君」は確認テストでどうなるのでしょうか。

 

教師「「オレ流君」は授業をきちんと聞いていないから、≪1つ分の数≫と≪いくつ分≫がわかってないんだよ。この答えは×。解き直しておいで。」

オレ流君「はい……。」

(オレ流心の声→なんで×にされたんだろう?≪いくつ分の数≫とか≪いくつ分≫って何のこと?オレは自分で考えちゃダメで先生のいうこときけってこと?)

 

(教師心の声→何故に私はかけ算の順序が逆であるときに誤答にしたのだろうか。でも、そう指導書には書いてあるし、適当に数値をあてはめて答えられたら判断できないから、かけ算の順序固定ルールは必要。たし算やひき算を混ぜたら、かけ算の習得にはノイズになるかもしれないし、それ以外に問題を作りようがないものな。もしかしたら、かけ算の順序と理解は別かもしれないけど、適当に数値をあてはめて答えられたのか、分かってやっていたのかを個人的に判断してたら、公平性が失われるし……このままでいくしかないな。)

 

ここで述べたのはあくまでも思考実験であって、現実に即していないと批判されるかもしれません。しかし、1つ言えるのは

 

主張D「授業とは別に算数・数学は存在していて、≪1つの式(表現)の解釈が1つしかないこと≫は疑いの余地がある」

 

ということです。≪≫内は教師の持つ「そうだったらいいのにな」という妄想であって、反例はいくらでもあります。あえていえば、入試問題にも別解が見受けられますよね。どの方法で考えたかによって、論理的にそれらの優劣が定まらないことと同じです。実際には、算数は教師の定めたルールこそ真理であり、解釈の余地はないとされることもあるようです。これは、まさしく「思考停止人間」の仕業だと私は考えます。

 

01. かけ算の順序について考えるということ、は以上です。