02. よい洗脳について考えるということ

01. *1の続きです。
____________________________________________________
20170106追記:カテゴリー「思考停止人間について」を新設し、振り分けました。それに伴い、記事タイトルを変更しています。
____________________________________________________
02. よい洗脳について考えるということ

さて、思考停止人間なるものを前回定義した訳ですが、その問題点は

思考停止人間が思考停止人間を再生産してしまうということ

に尽きます。コミュニーケーション全般に言えることですが、誤りを完全になくしたコミュニーケーションはあり得ません。その意味では、教師は新米ならば特に児童・生徒に時として嘘を教えてしまいます。教員養成大学に入学してから、技術的なノウハウをベテランの域に達するまで習得することは事実上不可能です。何とか実践経験を積んでみたとしても、過去の有力な学説が最近の研究の結果により覆されることもあるからです。その意味では過去まで遡及して、逐一訂正することはできないでしょう。私が学部生として講義を受けていたときに分かった(というか教わった)ことは、

講義(授業)は教授(教師)が教科を教える場ではないということ

です。正直なところ、この話をされたときに困惑しました。何のために授業料ないし学費を払っているのか、先生は私たちに分かるまで教えてくれるわけではないのかと。しかし、学部レベル以上の数学は、予想以上に理解に時間をようし、とてもではないが、講義のみでは内容についていける保証はありませんでした。ここで、改めて高校生の数学の学び方に大きく分けて2タイプがいることが分かったのです。

A. 予習メインで授業は確認程度
B. 予習なし、授業ですべて理解を完結させる

今となっては恥ずかしい事ですが、学部入学直後の私はB. でした。高校教師は高校授業で自身の授業への対策としてA. を推奨していました。しかし、前記事の「オレ流君」タイプだったら私としては、B. を実施していました。しかし、教科書の内容をなぞるだけの授業だったので、極端な話、教師の説明を聞いて理解するよりも、自分で授業中に教科書を読んで理解した方が効率的だったのです(問題集を解く時間に充てていました)。

しかし、そのやり方は大学で通用しなくなりました。それ故に、私の場合は必要に駆られて【学習に対するあり方】を再検討せざるを得なかったのです。なお、数学の予習について予期せぬことが起きたのでした。その件につきましては、時間に余裕があるときに記事にしたいと思います。

また、この再検討はたまたまうまくいくだけであることかと聞かれるよ、そうではないと答えることになります。そもそも、数学の学習が既存の知識の組み直しであることを考慮すると、自分以外の人間が自分に新しい知識を植え付けることができないとわかりますよね。そのように見えたとしても、それは洗脳の1種であるからです。洗脳されて、それに馴染むように動かされて、今までになかったことを身に付けていく。

言ってみれば、教育は洗脳です。ここでいう洗脳とは事実を指すだけで、善悪に関しては触れていないことに注意しましょう。そう、ここで問題にしているのは、個々の人間にとって

「よい洗脳とはどんなものか」

を考えることが重要です。そのために、ここでは教育を3つに大別します。

A. 親や保護者による家庭教育
B. 教師による学校教育
C. 各種メディアによる洗脳教育

順番に見ていきましょう。

A. 家庭教育では親や保護者が審美眼を持ち合わせていることが求められます。例えば、体罰。ちょっと道をはずした子供に懲罰の意味でほほをはたいたり殴ったり、蹴ったりすることが続いたとき、体罰を受けることが嫌いな子供はそれを拒否すべく従順になります。おや、かけ算の順序問題のときとそっくりの問題がありました。納得のいく説明ができないから、それをごまかすために体罰により、言うことを聞かせる訳です。すると、次からは楽です。親や保護者のいる前では決して、過ちを犯さないようになります。残念ながら、少し昔は当然のように行われてきたしつけ方法です。これでしつけられたから、自分の子供も!という再生産が起きることになります。叱られた理由がわかれば、何で悪いのかがわかり、他のことにも転用できるんですけどね。その意味では二重に損をしています(再生産による損失と機会の損失)。

続いてB. 学校教育に入ります。基本的な構図はA. 家庭教育と同じです。異なるのは、家庭では多くても5~10人ほどの家族親族しか関係し合いませんが、学校では時に30~40人の同学年の人達と関係し合うことがあります。そのなかで、家庭のことを話すこともあるでしょう。そして、「うちの家庭のルールはおかしい」と感じることも。その是非はケースバイケースではありますが、ファクターが多すぎてそもそも制御できる保証などないのです。しかし、現実には教師が学級を統率しないとならない。学級崩壊してはならないと無欲求められます。学級崩壊しないための簡単な方法は洗脳です。私からしたら、学級崩壊こそむしろ、児童や生徒の本音が現れることもあって、自然な環境なのではないかと思います。みんなやりたくもない勉強を無理矢理やらされているのです。ここでの教訓は

「命令されてやっていることは好きにはなれない」

ということ。勿論、お互いの「教えたい-教わりたい関係」が、構築できたら話は別です。「そんな理想論なんて(笑)」なんて思う人もいると思います。しかし、部活動を監督したことがあるなら知っているように、本当に技術の上達を希望するから、多少厳しい練習でも頑張れるという生徒もいます。理不尽なことでなく、スポーツ科学に則った練習であれば、めきめき実力は上がります。それは「教えたい-教わりたい関係」において、お互いの達成感が得られる瞬間でもあります。

最後にC. メディアの洗脳教育です。これは前者二つとは大きく子となります。洗脳というとネガティブなイメージばかりが先行しますが、いわゆるコマーシャル(CM)などはまさに、これに該当します。よくよく考えてみると、私たちは欲しくもないものを無理矢理買わされています。特に依存症になってしまうものは、それだけリピートしてくれるわけですから、資本主義において最も効率のよい消費スタイルでしょう(企業側にとっての都合ですが……)。

このようにマスメディアはマスメディアやスポンサーに都合のよいような情報を垂れ流します。これで、世論を動かす装置が完成したかのように思われました。しかし、そこにSNSサービスが食って掛かったのです。

SNSサービスの特徴は、それ自体の発信能力というよりかは、既存のユーザーの発信能力の増強に他なりません(勿論、SNSサービス自体がニュースサイトと連携してニュースを拡散しているようなケースもありますが、あくまでも主体はユーザーです)。

つまり、このSNSサービスの特徴はこれまで埋もれていたような少数派の声を拾える・探せるという可能性です。一昔前ならば、どこか一ヶ所にあつまったり、ひとつのサイトに繋がれるようにしなければ鳴らなかったのですが、今や自力でそのようなコミュニティを検索エンジンによって探し出せます。

この検索という行為こそ、これまでになかった革新です。体型立てた構造はその重複構造から、配置を困難にしました。そこに、ラベリングすることで複数のカテゴリーに分類でき、そのカテゴリーを可能な限り増やしたのが検索結果と言ってよいでしょう。実際、都市伝説や民間伝承の類いもその真相を調査したユーザーの結果を後追いできたりします。

さて、ここでの問題はそれまで暴くことが出来なかった民間伝承の真相を複数のユーザー間でやり取りをすることで協同して探り当てることができることに起因する、常識の破壊です。

前の記事でも述べましたが私のスタイルは建設的な懐疑論者なので、そのデメリットである、どの常識が怪しいのかを判定する基準がもてないことをカバーします(厳密な懐疑論者はそもそもものが存在するか否かまで考慮しないと、その先へ進めないので、かなり足踏みすることになります)。

結果的に言えばこの、メディアによる洗脳教育の中には既存の悪しき常識を打ち破るまた、別の洗脳が用意されていたのです。洗脳には洗脳を。これは脱洗脳が事実上の洗脳の上書きによることに起因します。それゆえに、対案が必要なのです。前記事のかけ算順序について言えば、現存の常識への論駁を行っても効果は薄く、むしろ、対案を示すことが議論を建設的に進めます。

し・か・し……このかけ算順序については、前記事でも述べたように原理的に≪1つ分の数≫と≪いくつ分≫ を区別することができないのですから、対案自体を作ることができません。それゆえに、(言わば設問の落ち度として)、

「対案が作れないこと」

を示さなければなりません*2。しかし、これでよいのです。かけ算順序はこのみの問題ですから、教師の好みと児童の好みが一致しなかったとしてと、無条件で正答にするのがよいでしょう。つまり、

「かけ算の順序が存在する」

という立場を捨てるのです。そして、この能力が数学を学ぶことで養われることが重要です。

02. よい洗脳について考えるということ、は以上です。

*1:01.かけ算の順序について考えるということ http://bb69qq.hatenablog.com/entry/2017/01/01/180202

*2:20170104追記: 適当に数値を配置して立式しようとする行為への対案として、よく挙げられるものに「たし算やひき算などを混ぜる」「日付や組名などの計算とは関係のない数値を混在させる」等がありますが、これはノイズ除去の観点からして推奨されません。より詳しく言えば、ノイズ除去を予め済ませている「スモールステップ方式」を予め否定しておかないといけません。そうした場合、児童自身で「これはノイズだから除去しないといけない」という判断能力がかけ算とは別に必要となるため、教師側の落ちこぼれ回避傾向からすると、認め難い選択肢なのです