04. 脱洗脳装置としての数学

03. *1では、人間個人単位では何かしらの信仰に依らずして、区分的に連続的な思考活動ができないことに触れ、その個人的信仰の拠りどころとなる宗教の候補に「(狭義の)科学」を挙げました。その実践方法について今回は述べていきたいと思います。
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20170106追記:あみだくじの行き先、論理記号の直訳や全射単射辺り等を加筆修正しました。
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04. 脱洗脳装置としての数学

03. で述べた「考え方を乗り換えるということ」を実践するためには、ある程度方法論を確立することが必要です。(20170106追記:)何故ならば、好き勝手に考え方を乗り換えてもそれは優柔不断なだけであって、かえって混乱をきたすだけだからです。(追記ここまで)そのために、私は個人の信仰という意味で拠りどころとなる宗教としての【数学】を採用する立場にいます。勿論、

【思考の自律性】

という意味では、哲学でも良いのですが、義務教育課程では必ずしも万人がある程度の素養を持ち合わせている保証がありません。それに対して、数学は国定のカリキュラムによって少なくとも中学数学まではその素養が保証されているため、0からのスタートという訳ではないのです。

ただし、これには反論もあることでしょう。すべての人間が無事に中学校を卒業したり、卒業したとしても数学を身につけていったかというと確かにそれは絶対ではありません。しかし、自然数概念をはじめとして、人間にある程度備わっている感覚は疑いようのないものであり、ここで健常な人間であれば、少なくとも対象内に入ることができます。ここまで来ると、あとは学習にハンディキャップがある人を押さえれば万人の数学ということになるわけで、そこでは数学の本質が「論理学」にあるということで解決されます。つまり、この考察からも分かるように、私たちが数学をやるというとき、それは暗に

「論理学を学ぶ」

ということを意味しています。

さて、先程述べた【思考の自律性】が数学に求められることをみていきましょう。まず、01. ではかけ算の順序について考えました。これに対しては02. でいうところの、

【授業は教師が教科を教える場ではない】

を適用し、

「教師は『かけ算』のきっかけを与え、児童・生徒こそが主体的にそれの理解に努める」

という構図を生み出せばよいのです。通常は

「教師が主体的に『かけ算』を解説し、児童・生徒は理解させられる」

という構図なのですから、03. で述べた「考え方を乗り換えるということ」に該当します。お気づきでしょうか、バラバラに述べていた01. ~03. がすべて「数学を学ぶこと」から演繹されます。タイトルにある「脱洗脳」とは古い信仰から新しい信仰へと乗り換えることを意味します。これが数学の脱洗脳装置としての役割です。

具体的に数学の例を挙げてみます。「関数」という概念は中学校で

「ともなって変わる2つの量の関係」

として了解されていたものが、高校では

「集合Xの1つの元xが決まると集合Yの元yがただ1つ決まる関係のうち、集合Yが数の集合であるもの」

と乗り換えられます。(20170106追記:)文字(変数)を使わないで表現したい場合もあるので、ここでは集合Xを『始まり*2』、集合Yを『行き先*3』と呼ぶことにします。すると、『始まり』の元から『行き先』の元(数)がただ1つ決まるという構図であるとも言い換えられます。論理記号で書けば、

∀x∈X, ∃!y∈Y s.t. f(x) = y

です。(追記ここまで)これにより、関数の連続性や微分可能性という性質について、緻密に議論することが可能になります。例えば、

f(x) = -x^2 (xが0未満のとき), x^2 (xが0以上のとき)

という関数を考えてみましょう。fは実数全体の集合から実数全体の集合への関数です。行き先が数の集合になっていますね。f(0)=0であり、xの値が0より小さいときと0以上のときとで場合分けされているものの、右極限も左極限も0ですから、連続性を持っています。そして、この(一階の)導関数

f'(x) = -2x (xが0未満のとき), 2x (xが0以上のとき)

であり、f(0)=0であり、x=0においては左極限も右極限も0ですから、やはり連続性を持っています。また、このことはもとの関数fが微分可能であることを意味しますが、二階の導関数

f''(x) = -2 (xが0未満のとき), 2 (xが0以上のとき)

ですから、x=0における連続性がなく、従ってf'はx=0で微分可能でないことを意味します。このように、「関数全体の集合」の中に「連続性を持っている関数の集合(連続関数全体の集合)」が包含され、さらにその中に「微分可能性を持っている関数の集合(可微分関数全体の集合)」が包含されます。y=x^2 と y=-x^2 といえば、中学校で習う範囲ですが、ちょっと切り貼り(して微分)するだけで、1点で微分可能でない関数 g=f' を構成することができるのです*4。また、その関数を微分することで、1点で不連続な関数 h = f'' も構成できましたね。このような緻密な議論に耐えるような「関数の定義」はとても優れていると思います。

勿論、ここで挙げた例はいわば、反論のための例であって自然に思えないかもしれません。しかし、

【関数とは何か】

という本質に迫る問いに対しては十分です。通常、学校数学ではこのような本質に迫る問いは扱いません。ただ、計算問題として解け、採点が容易な問題しか問われないのです。そのような教育を受けた児童・生徒からしたら、

「何のために数学を学ばされたのか」

という疑問は自然にに出てくることでしょう。関数の例についてまとめると、微分可能性は(未習であり考慮しなかったとしても)「連続性」をもたない「2つの対応」を「関数」にカテゴライズして構わないかという疑問を扱ったものといえるでしょう。そして、「連続性」を捨てて、プレーンな「関数」を再定義することで、思考枠組みを広げることができました。その結果、今までよりも広い視野で数学を捉えられるようになるという恩恵があります。

実際、「関数の定義」で既に述べた「集合Yが数の集合であるもの」に違和感を覚えた読者は洞察力に長けています。この部分をさらに捨てることによって

写像

という概念を獲得することができるのです。例えば、次のアミダくじをする状況を考えましょう。

あい う え
┣━┫ ┃ ┃
┃...┣-━┫ ┃
┣━┫ ┃ ┃
優準 3 4
勝優 位 位
 勝

あ→3位、
い→準優勝、
う→優勝、
え→4位

という対応があるため、この関係は

集合X = {あ, い, う, え}から集合Y = {優勝, 準優勝, 3位, 4位}への写像f

として捉えられます。行き先{優勝, 準優勝, 3位, 4位}も始まり{あ, い, う, え}も数の集合ではありません。しかし、実はこの写像は特別な性質を持つ写像です。具体的に言えば、行き先のすべての元に対して、

優勝→う,
準優勝→い,
3位→あ,
4位→え

というように始まりの元へと逆にたどることができるのです。この状況を

【逆写像】を持つ

と定義します。(20170106追記:)論理記号で書けば、

∀y∈Y, ∃!x∈X s.t. f(x)=y

であり、これを直訳すれば、

「(Yに属する)すべての y に対し、(Xに属する)ただ1つの x が存在して、f(x) = y である」

となります。(追記ここまで)アミダくじに限らず、一般的な写像が逆写像を持つための必要十分条件を探りましょう。

まず、行き先から1つの元を指定するためには、元の写像が行き先すべてにわたって写されることが必要です。論理記号で書けば、

∀y∈Y, ∃x∈X s.t. f(x) = y

であり、これを直訳すれば、

「(Yに属する)すべてのyに対し、(Xに属する)あるxが存在して、f(x)=yである」

となります。逆写像の定義と見比べてみてもただ1つの以外は同じであり、肉薄していますね。この性質も持つ写像を【全射】といいます。性質そのものは「全射性」と呼ぶことにしましょう。しかし、全射が必ずしも逆写像をもつとは限りません。行き先の元から逆にたどるときに、始まりの元が2つ以上存在すると、それは写像の定義の「『行き先』の元がただ1つ決まる」という部分に抵触するからです*5。そのために、次は

「最初の写像が『違う元を違う元に写す』」

という条件を考えましょう。一般に写像が逆写像を持つためには、全射性とともに上の性質も満たす必要があります。論理記号で書けば、

∀x_1,x_2∈X, (¬(x_1 = x_2) →¬(f(x_1) = f(x_2)))

であり、これも直訳すれば、

「(Xに属する)すべてのx_1, x_2に対し、『x_1とx_2が等しくないならば、f(x_1)とf(x_2)も等しくない』」

となります。このような写像を【単射】といいます。性質そのものは、前の性質と同様に単射性と呼ぶことにしましょう。単射性は逆向きに定義することもできます。その場合は命題の対偶をとって

∀x_1, x_2∈X, (f(x_1) ≠ f(x_2)→x_1≠x_2)

とするのです。直訳は

「(Xに属する)すべてのx_1, x_2に対し、『f(x_1) = f(x_2)ならば、x_1 = x_2』である」

となります。どちらを用いるかは好みの問題です。

一般の写像がこれまでに述べた【全射】かつ【単射】であるとき、【全単射】と定義しましょう。実は全単射は必ず逆写像を持つことが示せるのです。この証明は読者の宿題とします。逆写像を持てば全単射であることは確認済みなのでよいでしょう。(170106追記:)このようにして得られた写像fの逆写像

f^{-1}

とかき、

エフ・インバース

と呼びます。今後述べる予定ですが、写像に演算を定義したとき、このように逆写像をもつ写像全体を考えることが重要です。ここでも、【絶対的な真理はないが、ある仮定の下では真理とみなせる】という論理学のよさが出るのです。(追記ここまで)

そして、何故ここまで「写像」にこだわるのかというと、大学の学部レベル以降の数学では本質的に「写像」という言葉なしには語れない(あるいは、語れても回りくどくなる)ことを知っておけば、高校数学レベルの数学理解でも市販されている大学レベルの数学書を読み始めることができるかもしれないからです。

数学を通して、論理学を学ばせ、【思考の自律性】を強く意識させること。これが脱洗脳装置としての数学の役割・効用です。経験したことのみを語り得るという立場を捨てて、再現性・普遍性を持つ形式科学としての論理学を学ぶということが如何に重要なことであるか、再確認できたことでしょう。

04. 脱洗脳装置としての数学、は以上です。

*1:03. 考え方を乗り換えるということ http://bb69qq.hatenablog.com/entry/2017/01/05/061551

*2:『始まり』のことを数学では『定義域』と呼びます。

*3:『行き先』のことを数学では『値域(終域)』と呼びます。

*4:20170106追記:この場合は、絶対値記号|・|を用いて、 g(x) = 2|x| と書くこともできます。また、「すべての点で微分可能である」を否定するというときには、「1点でも微分可能でない点が存在する」ことを示せばよいです。これは論理学のルールであり、勿論、「連続性」についても同じ議論がなされます。

*5:20170106追記:例えば「あ」さん、「い」さん、「う」さん、「え」さん各々にアミダくじの行き先予想をしてもらい、集計結果が「あ→優勝、い→優勝、う→3位、え→4位」となった状況を想定してみましょう。このとき、優勝→「あ」「い」とたどることになり、写像の定義を満たしません。なお、逆写像の始まりは最初の写像の行き先であり、かつ、逆写像の行き先は最初の写像の始まりとなっていることにも注意しましょう。