03. 考え方を乗り換えるということ

02. *1の続きです。02. では教育全般が広範な洗脳であることを示し、その上でよい洗脳とは何かということを考えました。具体的に私が考えるよい洗脳を述べたいと思います。
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20170106追記:一部誤字脱字等を修正し、追記しました。
20170106追記:カテゴリー「思考停止人間について」を新設し、振り分けました。それに伴い、記事タイトルを変更しています。
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03. 考え方を乗り換えるということ

洗脳といえば宗教、宗教といえば洗脳、と言った具合に、洗脳について考えるときに宗教という具体例はなくてはならないものです。というのも、通常、学校・家庭での教育はあくまでも教育とみなされ、洗脳であると指摘されることは稀だからです。つまり、具体的にイメージしにくいのであって、むしろ宗教の洗脳をイメージすることが、教育における洗脳を副二次的に表してくれることでしょう。

私は宗教は肉体的・精神的・経済的に劣っていたり、貧しい場合に求める欲求(の具現)だと考えます。分かりやすい例が生まれつき体が弱かったり、劣等コンプレックスを持っている場合です。

強盗や傷害の被害者であれば、加害者を訴えたり、そうでなくとも恨むこと自体は可能です。しかし、やり場のない恨みはその人を執拗に追い詰めます。体が弱いことを母親に訴えたとしても、取り返しがつきません。「生まれ変わり」という概念*2が実在しない以上、仮にその場で絶命しても生まれつきのからだの強さが健常な人のそれに追い付くことはありません。(20170106追記:)その時点で人生は終了であり、それを超えるものでも下回るものでもありません。哲学ではよく言及されますが、「死」は人生の外にあるため、存命中に経験することではないのです。(追記ここまで)

そのため、誰も恨む対象になりえないどころか、下手したら悩んでいるその人自身が悪いという段階にまで進んでしまうと、悪い自己洗脳(自己催眠)として立ち直りにくくなってしまうことでしょう。

そこで、助けを求めるのが宗教です。例えば、前世*3で悪いことをしたからその贖罪なのだ、と説明されたら少なくとも自分が悪いという考え方からは脱することができます。ここまではまだましです。単なるレトリックであって、何ら論理性はないと判定できるからです。しかし、その苦しい状況から脱するために宗教活動をみんなでしていこうというのは、どうなのでしょう。また、批判をしてくる団体は敵とみなし、徹底的に抗戦するという団体もいることでしょう。

このように、人間の心というものは、個人的信仰と集団的信仰が入り交じっており、後者に偏るほど思考停止人間に陥りやすくなります。

私は個人的信仰などしていないぞ!という方もおられることでしょうが、食前の「いただきます」や食後の「ごちそうさま」は元々は調理した人間にかける言葉だったものが、食材となった生命の命にかける言葉でもあるとして拡大解釈されています。また、そもそも白米をおかずと一緒に口の中に運び、食すという行為も慣れてしまっているから違和感がないですが、国際的には珍しい部類です。このような背景には、民間伝承をはじめとする

「集団的無意識による自己洗脳」

があることが大きいと思っています。1. で取り上げた「かけ算の順序」などもそれにあたります。元を辿っていけば、「そのような気がする」程度だったもののはずです。みんながそれを信仰するようになってからは、そこまで、熱心に布教しなくても「これは正しい知識だ」として集団的無意識的に各自が自己洗脳していくために、

「誰もが信じて疑わない定説」

と化していくのです。この仮説に従えば「かけ算の順序が存在する」という「常識」がウソであることを示すのはこんなんであることはすでに01. で示した通りです。

さて、 前置きが長くなりましたが本題に入りましょう。個人単位での信仰が文化的に根付いている以上、これを排すことはできないと考えた方が無難です。人類単位でいえば、人前に出るときは服を着ないと恥ずかしい、という信仰もあります。これらすべての個人的信仰を無視するということは、山奥で仙人のような暮らしをしない限りは事実上不可能でしょう。

そこで、集団的信仰が「信仰の自由」を脅かす可能性について考えてみたいと思います。例えば、Aといつ宗教があったとして、aさんがAの熱烈な信者だとします。同様にBという宗教があって、bさんがBの熱烈な信者だとします。aさんは「Aこそ真の宗教であって、Bは邪教である」と考えるとともに、「bさんは道を誤っているから、正しい道に進めてあげるべき」という過激な思想の持ち主です(aさん自身からしたら、善行をしているのでむしろ推奨されるべきだと自負があるのですが、客観的にみた場合の状態としては過激というほかありません)。

そこで、aさんとbさんは互いの信じるA, Bの教義に基づき、論争を繰り広げるのですが埒があきません。次第に、それぞれの仲間も論争に加わり、次第に人格攻撃をはじめとしたトラブルが引き起こされるという思考実験です。(20170106追記:)ここには「お互いが善行のつもりで始めたことが『信仰の自由』を侵害する」という問題が発生しているといこうです。(追記ここまで)

ここでよく問題視されるのが、

「果たして絶対的に正しい宗教など存在するのか」

ということです。私自身はこの問いに否を差し出します。しかし、相対的に見て、合理性や再現性がある宗教があります。それは

「科学」または「狭義の科学」

です。万能な宗教の追求を断念する代わりに、部分的にではあるが利用価値の高い宗教を求めるということが、

「考え方を乗り換えるということ」

です。ヘーゲルの「弁証法」やパースの「abduction」然り、その技術論には枚挙に暇がありませんが、思考を硬直化させずに、いつでも乗り換えていいんだという心構えで臨むことが重要であると同時に、実用性を優先すると大抵は思考の対象外になってしまうことが現実です。所謂、「大人は頭が硬い」というのも、根本的に

【生きる上では困らない程度の理解】

を求めているからです。これは、子どもが実用性を無視して「⚫⚫って何?どうして?どういうこと?」と大人に訊ねるのとは対称的です。

03. 考え方を乗り換えるということ、は以上です。

*1:02. よい洗脳について考えること http://bb69qq.hatenablog.com/entry/2017/01/02/012650

*2:実はこれも洗脳による認識であって、経験しないし存在を証明できない概念。

*3:これも「生まれ変わり」の話と同様に経験もしないし存在を証明できない概念。